現代では「仕事」「働く」という作業にはネガティブなイメージが付きまとっている気がします。
- 働きたくない。
- 仕事が嫌い。
- 働いたら負け。
…でも、働かなきゃ食べていけない。
ここに強いジレンマが付きまとっているわけです。
そんな時、「百姓」という働き方を取り入れてみることがおすすめかもしれません。
ただ、百姓って聞くと「=農家」ってイメージの方がほとんどだと思います。
実は、働き方改革やパラレルキャリア、副業…なんてことを考えると、この“百姓”という働き方が案外マッチするのかと。
本質的に今の世の中に非常に理に適っている働き方なのかもしれないって思ってきました。
そこで今回は、この「百姓という働き方」について深めていきたいと思います。
本記事で、少しでも働き方を見つめなおしたい、改善したい…という方の一助になれれば幸いです。
百姓とは?
まずこの百姓とはどのような意味になるのでしょうか?
その言葉から深めていきます。
百姓とは…
- 農民(農家、農業従事者)の事を指す語。農業や農作業をする動詞として用いられる場合もある
- 江戸時代における本百姓のこと。
- あかぬけない人や情趣を解さない人に対する侮蔑語。
- ひゃくせい:一般の人民。庶民。多くの役人または人民の事を指す漢語に由来する
…ということ。
Wikipediaで調べたらこのような結果になりました。
まあ、一般的にはやっぱり「百姓=農民、農業従事者、庶民」といった意味合いが根強いのかなと。
“百姓”とは本質的には“百の生業を持つ人”のこと
本記事のテーマである働き方を考える上での“百姓”とは、結論から言えば…
100個の生業を持つ人
…という定義になります。
“姓”って名字の意味として捉えられますが、そもそもは“役割”とか“屋号”のことを指していたとか(そういう時は“かばね”って読み方するみたいです)
だから100の役割(屋号)を持つ人=百姓ですね。
現代風で言えば…
- 複業
- パラレルキャリア
…という言葉が近いかな~と。
歴史から紐解く“百姓”
百姓=農業従事者というイメージが強いですが、農業って非常に季節によって業務量が左右される職業です。
基本秋の収穫が終わって冬に入れば特にすることもありません。
ビニールハウス農家とかは別でしょうけど、大昔の百姓の方々は暇を持て余してしまうことが大多数だったかなと。
その為多くの農家の方は、農作業が落ち着いた時期は…
- 傘や瓦、障子などの修理業
- 竹細工や皮革業などの製造業
- 染物などの染色業
- 医者や美容師、僧侶などの専門職
…など様々な“生業”で生計を立てていたそうです。
歴史からみてもこの働き方の方が日本では長く行われてきた働き方と言えます。
あ、上記の補足ですが医者に限っては逆で、「医者をやりつつ農業も行っていた」ってケースです。
農業従事者が時間みつけて医療行為に勤しんでいたとかそういうのではないです。
そんなの患者からしたら恐ろしいことこの上でないですからね。
サラリーマンという言葉は実は大正時代から
企業に雇用されて働くという一つの働き方の代表でもある“サラリーマン”。
この言葉は100億パーセント和製英語ですが、実は使われ始めたのは大正時代からのようです。
つまり少なくても1912年(大正元年)以降に作られた言葉なので、100年ちょっと。
この年月を長いか短いかは別として、「一つの企業に雇われて勤める」というスタイルよりは百姓という働き方のほうが長い歴史があるということがわかります。
100の生業を持つ人という意味での百姓の特徴
では、この100の生業で生計を立てるという意味での百姓の特徴とはどんなものでしょうか?
いろいろ調べた結果、ここでは…
- 多岐に渡る生業を持つ
- 多くの知識・技術を持つ
- 特にスペシャリストであるわけではない
…の3つに絞ってみました。
以下に詳しく解説します。
多岐に渡る生業を持つ
百姓は“百の生業を持つ”というくらいですから様々な仕事をこなすという特徴があります。
といっても別に“100個の仕事を持って初めて百姓”というわけではなく、それだけ複数の仕事をこなしているという意味になります。
スペシャリストとゼネラリストという対の意味に位置する言葉がありますが、百姓はゼネラリストという働き方に位置することになります。
“専門家”よりは“なんでもできちゃう人”ってイメージですね。
多くの知識・技術を持つ
それだけ幅広い仕事をこなすわけですから、多くの知識と技術を持っているという特徴があります。
むしろ、様々な仕事を通じて多くの知識、技術が身についてきた…と言ったほうが正しいかもしれませんね。
この技術と知識の掛け合わせ方によっては、百姓という働き方は非常に精神的にも負担が少なくなり、メリットばかりの働き方になり得ると考えます。
「働いたら負け」という発想すらなくなりますね。
特にスペシャリストであるわけではない
なにかひとつに特化した仕事を行う働き方である“スペシャリスト”。
これって常に100%、100点を求められる働き方とも言えます。
じゃなかったら「え?専門家なのに知らないの?」って怒られてしまいます。
その一方、百姓の働き方は端的に言えば“合計で目標を達成できればOK”という働き方です。
様々な仕事をタイミングよく同時進行していくことが前提の百姓にとって、なにかひとつを100点まで極めるということは時間的なコストがかかるので逆にデメリットにもなり得ます。
「Aという仕事(100点)のみ」
…というよりも、
「Bという仕事(50点)」×「Cという仕事(50点)」
…を掛け合わせれば250点の仕事になるでしょ?…ってイメージかなと。
別に「D(80点)×E(50点)×F(30点)=120000点」でもよいかもしれません(笑)
こう考えると、すごい強そうに感じますね。
スペシャリスト VS ゼネラリスト
少し脱線しますが、働き方についての話題を出すと必ずと言っていいほど…
スペシャリスト VS ゼネラリスト
…の抗争に巻き込まれます。
別にどっちが正しいも何もないですし、正直
「自分に合う働き方すればいいのでは?」
…と思います。
日本で一番高い山は富士山だけど、二番目は?の話
そしてもう一つ。
スペシャリストな働き方の話になると必ずついてくるたとえ話。
「日本で一番高い山は富士山、じゃあ二番目は?」
って話です。
多くの人が1位のものについては知っていても、2位以下のものについては知らんから、何事も1番になれ…って意味の話。
おっしゃる意味はよくわかりますが…なんだかピンとこないなと。
あと、この質問をする人の根底は「知名度」とか「自分の名前を残す」的なことを最優先事項に上げるような人な気がします。
今の時代、既存のジャンルで一番になることって相当難しいです。
だって、もう先駆者がいるわけだし、すっかり開拓されているんですもの。
それよりは、
- 一番でないけど、得意なやつを複数掛け合わせる
- それでニッチな市場で上位を取る
…って発想の方が労力としては軽いし、何より精神的な負担が少ないと思うんです。
- 青森×山=八甲田山
- 幽霊×山=恐山
…みたいなね。
あ、この例えわかりにくいです?
百姓という働き方の代表例
最近はこの百姓=100の生業を持つ働き方って考え方が浸透した背景に、落合陽一氏の「日本再興戦略」という本で紹介されていたことが影響しているようです。
たしかに落合陽一氏は…
- 研究者
- 科学者
- 教育者
- メディアアーティスト
- 起業家
…という多岐にわたる活躍をしている“百姓”とも言える方です。
でも自分としてはもっと昔から、このパラレルキャリア、百姓という働き方を意図せずともしている人として…
- みうらじゅん
- 大槻ケンヂ
- リリー・フランキー
- 所ジョージ
- 宇多丸(RHYMESTER)
- タモリ
…といった方々が頭に浮かびます(敬称略です)。
俗にいうマルチタレントってやつです。
百姓という生き方、働き方のメリット
さて、どうでしょう?
こう考えていくと、百姓という生き方や働き方は非常に魅力的に感じてきたんじゃないでしょうか?
改めて「百姓という生き方、働き方」のメリットとしてあげるなら次のとおり。
- 時代の変化につよい
- 災害につよい
- 何より生活そのものが充実する
少しそれぞれを掘り下げて解説してみますよ。
時代の変化につよい
現代は昔よりも変化が目まぐるしい時代です。
情報化社会ってこともあるんでしょうけど、どんどん新しい技術やテクノロジーが生まれ、流行り廃りのスピードがとんでもない。
ある特定のジャンルが流行っていたとしても、次の年にはもう“オワコン”なんて言われてしまいます。
そう考えると、幅広くアンテナを張ってマルチにこなしている百姓の場合は、その変化に対しても柔軟に対応できるのかなと。
災害につよい
1つに特化した働き方って実はそのジャンルや業界自体がダメージを受けた場合非常に受ける影響が大きいんです。
コロナウイルスの影響で外出自粛ムード、イベント中止対応の結果、音楽やエンタメ産業は大ダメージを受けました。
これは音楽やエンタメが“娯楽”というカテゴリーかつ“ライブ”っていう手法に依存していた弊害とも言えます。
東日本大震災の時もそうでしたが、災害の時に娯楽産業の優先順位は下がってしまいました。
コロナウイルスに関しては感染のリスクを避けるために人が集まるライブは自粛の流れになりましたし。
その一方、百姓は様々な生業を複数持っているし、その手法も様々なことからカテゴリーや役割、ジャンルや業界に縛られません。
仮に1つの業界が衰退してもダメージは軽くすむ…という寸法です。
あとは、結果的に“なんでも自分でできる”ってことにもなるので、自給自足という点でも災害に強いとも考えられます。
大人の独り立ちです。
何より生活そのものが充実する
人間って不思議なもので自分から追う作業は楽しいし意欲的になれるけど、追われる作業は負担になるし嫌になるものです。
ベンチャー企業の社長なんかが、「創業当時はお金がなかったけど毎日が充実していた」…なんてのはよく聞くエピソードです。
人から指示を受けてやらされる仕事はってのは、やっぱり精神的な負担が大きいんです。
逆に、自分で選んでコントロールして進めていく仕事は楽しいものかと。
百姓はいろんなことを生業としている点から、仕事量もやり方も、扱うものも取引先も自分でコントロールできるメリットがあります。
そう考えると、すべての仕事を楽しく行うことができるので、毎日を充実して過ごすことができるってことになります。
ホント、追われる作業は病みます。
ホント、追われる作業は病みます。
逆にデメリットは?
百姓という働き方、生き方のメリットはそんな感じですが、逆にデメリットはなんでしょうか?
考えてみたところ…
他人から見て何をしている人かわかりにくくなる
…って言う危険性があることかと。
扱う生業の幅が広すぎると、仮に仕事を依頼するような人がいたとしても何を振っていいのかわからない…なんてことになってしまう恐れがあるのかもしれません。
この辺は“ランチェスター戦略”至上主義の人も頷く意見かもしれません。
ただこれって、完全自給自足で自己完結型の百姓なら問題ないでしょうし、扱う生業ではなく、それを行う人そのものがブランド化していれば攻略できるデメリットなんだと思います。
「職業は“私”です!」って言うタイプですね。
働くことの目的について
またちょっと脱線します、スミマセン。
「働くことの目的」ってなんでしょうかね?
ここでは社会貢献だとか、世の中を変えるためだとかそういうことはちょっと横に置いときます。
突き詰めちゃえば、働くって…生活するためってのが大前提だと思います。
もっと言ってしまえば“食べていくため”です。
人間の生活の基本である衣食住のうちの“食”を得る方法が確立していないと生きていけませんからね。
ここで思うのは「食べていくために精神的につらい仕事を毎日嫌々するのか?」ってこと。
だって生きるために“食べていく”のに、その生きるってことがつらいものだったらなんのために食べていくのか?って話。
家族を養うためって意味でも同じ。
家族にご飯をたべさせるため、嫌な仕事、きつい仕事をして身を削って…
大事にするはずの家族と一緒にいる時間も少なくなって、結果体を壊しちゃう
…これ、ちがうような気がします。
そんなやり方しかできないって人がいるのも事実でしょうけど、それじゃあ本末転倒だろうと。
食べていけるけど不幸だったら、それは“生きている”のではなく単純に“生存している”だけなのでは?って思ってしまいます。
自由に生きるための手段の一つが「百姓」かと
自由に生きたいって願う人が多いと思いますけど、その自由ってなにさ?ってこと。
思うに…
自由は選択肢の広さと多さに比例する
…ってことだと現段階では思っています。
言い換えれば、1つの物事に依存や執着しない生き方。
- 業界
- ジャンル
- 商品やサービス
- 方法や手法
なにかひとつに依存し、執着してしまうというのは、この変化が激動の世の中では最も危険な生き方かもしれません。
この危うさって…
「あなたなしでは生きられないの」
…っていうちょっと重い女の子の心情にも似たものを感じます。。
まとめ
本記事では、百姓という働き方について解説しました。
改めて言いますが農家になりたいわけではありませんよ。
今の時代、こういう幅広い知識と技術、そして経験は強みになるのでは?って話です。
いろいろ行動しなきゃなりませんね!